** 私の生きる道 **

社会的養護を考える人です。社会に伝えたい事。

「施設で育った子どもの自立支援」より〜話したくない事。触れて欲しくない事。でも避けられない事。

軽く人に聞かれたくない事があります。

それは私の場合、10歳の頃から今の今までずっとあるものです。

生い立ちの事。過去の事。家族の事。

それは、説明してもすぐには理解してもらえないような事だから。

そして、可哀相だと思われたり、驚かれたり、一瞬空気が曇るような事だから。

 

ある社会的養護の講習会で、早川悟司先生に出会って、私はとても共感と感動を覚え、すぐにこの本を購入しました。

随所にうんうんとうなづくシーンや、心にぐさっと刺さる部分があります。

早川先生は、清瀬市にある児童養護施設の施設長さんです。

高橋亜美さんは、アフターケア相談所ゆずりはの所長さんです。

高橋さんの書かれた部分にも、強く共感する部分があり、共に尊敬するお二人です。

 

 

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その中の「1 子どもたちの物語」の最初に、こんな一文を目にし、目頭が熱くなりました。

 

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人には、「話したくない事。触れて欲しくない事。」があります。

でも「避けられない事。」があります。

 

世の中には、様々な境遇で生きている人達が共存しています。

その生活の中で、皆が別々の経験をし、別々の生活をしています。

その中で出来上がった感情を、人は知る由もありません。

そんな中、何気ない質問が、人の心を深くえぐる事があります。

 

誰も意地悪で聞いている訳ではありません。

例えば誰かと誰かが出逢った時の自己紹介みたいなものです。

人と人がこれからより良い関係を築いて行こう、と言う前向きな気持ちが、

このような場面を引き出してしまう事があります。

 

それは不意に訪れます。

答えにくい事を聞かれた時、嘘をつこうかと思う事もあります。

そのまま黙って当たり障りのない本当ではない事を適当に言って、

その場をしのげば良い時もあるのかもしれません。

迷いながら本当の事を告げ、どんよりとした空気になり、相手にも申し訳ない気持ちになり、後悔したりもします。

本当の事を告げる時は、瞬時に覚悟します。明るくさらりと伝えるんだ、と。

それでも相手は、過剰反応します。それは相手にとっては、最大の配慮でも、更に私のメンタルに響きます。

 

大人になった今でも同じような事があり、新しい出会いの場面が苦手だったり面倒だったりします。

でもそれを避けていては、自分の世界は広がりません。

私はある時、私の事を誰も知らない土地に行ってみたいと思い、タイミング良く実行しました。当初はとても心地良く、何のストレスも感じなかった。

でも、ふいにまたそれはやって来ます。そして、長い間自分の中で、その時の気まづさが記憶として残ります。

でもそれを繰り返していると、もうそれは避けられない事として受け止める手段を考えます。

自分の方でそれを克服し、さらりと受け交わす事が出来れば、こっちのもんです。

そして、そんな自分でさえ、人に同じような思いをさせている事がないとは言えません。

何故なら、人の経験はその人のものでしかなく、人の気持ちは計り知れないからです。

大人になってそう思えるようになった私でも、それでもまだ触れて欲しくないと感じる気持ちは変わらない。自分から話したい人、に対して以外は。

それだけ私の中には、触れられなくない事があります。

秘密主義ではありません。あいにくそのような経験則が多いのです。

 

この本の中に書かれている当事者は、まだ高校を卒業したばかりの10代の子どもです。

社会に出て、まだ10代の子どもに世間は容赦なく親の事を聞きます。

世間は何故、親が居て当たり前、と言う視点なのでしょう。

あいにく今の世の中はまだまだ、10代でも親に頼れず、親に頼らず、一人で生きている若者も居るのだと言う事に、目を向けていません。

「無表情で僕が答えたら、察してほしい。もうそれ以上、聞かないでほしい。」

その気持ちが痛い程分かります。

 

 

「だれでも抱えている心の痛みの延長線上に、児童養護施設の子どもたちが抱えている心の問題がある。程度や具体的内容は違うとしても、心の問題の本質は同じもののはずだと僕は感じる。」(本文より)

 

私もそう思います。

子ども達の叫びの中に、自分と重なる気持ちを見つけるたびに。

 

 

 

 

 

 

社会的養護を考えていたら、自分の人生と向きあう事に繋がった。その先にあったもの〜愛着障害〜

 

社会的養護について考えていると、様々な事例に出会います。

様々な子ども達の叫びに出会います。

その一つ一つと向き合っていると、大きなキーワード愛着障害を避ける事が出来ない事が分かり、私は岡田尊司先生の書物を手にしました。

 

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愛着障害

最初、その言葉を聞いた時は、親の十分な愛情の元で育てられなかった為に起こる何か特別な世界のものだと思っていました。

どこか、自分とは関係のない世界のものだと。だから勉強をしなければ、と。

夢中でこれらの本を参考書のようにして読みました。

写真の右から順番に・・・そしてまだ今、更に一歩進んだ回避性愛着障害についての本(一番左)を読んでいる途中です。

ペンで線を引きながら・・・一字一句見逃さない集中力で時間をかけて。

すると・・・。

 

私自身にも当てはまる事象が次々と出て来たのです。

私は十分に愛されて育ったハズ、きっとそれは間違いはないのでしょうが、10歳で最愛の父を亡くし、その後母子家庭で育った私は、母との確執がなかったとは言えません。10歳以降私は、母に甘えたことがありません。恐らく指一本、触れたこともありません。

それなのに自己の創造において、母の存在が果てしなく大きく、いつも母に嫌われるのが怖くて、母親の顔色を伺って過ごしていたのです。

自分の人生の岐路においても、いつも母は何を望んでいるか、どの道なら母は納得するか、機嫌が良いか、が基準でした。

これは今思えばとても窮屈で、自分の人生を歩んでいたとは思えません。

以下、本文より

「困ったことがあると、すぐ人に相談したり、助けを求めたりする人。

逆にどんなに困っていても、なかなか人にそのことを打ち明けたり、ましてや援助を頼むということが言い出せない人。気軽に甘えたり、すぐ相手と親しくなれる人もいれば、何年顔を合わせていても、いっこうに距離が縮まらない人もいる。こうした行動の違いを生み出しているのも、愛着スタイルなのである。」

 この文章は、「愛着障害〜子ども時代をひきずる人々」の本の比較的最初の方に書かれていて、私は人に相談や援助を頼まない人だったので、あれ?もしかして私もある種(不安型、もしくは回避型)の愛着障害なのか?と自分に問い掛け、一気に引き込まれました。

また、「愛着障害の克服」の方ではこんな風に書かれています。

「親が決定権を持ちすぎたために、自分の気持ちや意思に従って行動することができない。自分の気持ちや意思が自分でもわからない。〜中略〜親には依存し、良い子であろうと周囲の顔色をうかがうなど・・・」

と書かれていて、まさに10代の私のようでした。

 

社会的養護における子ども達の「愛着障害」という観点について勉強しようと読み始めたこれらの本でしたが、大いに自分の人生と照らし合わせることで、今までの自分の人生の歩み、生きづらさ、などを振り返り、これからどうして行ったらいいかに至るまで、考えさせられたのでした。

そして、母からの自立をして始めて、自分の人生を歩んで行けるのだということに今更気づいたのでした。

私がこれをやれば、母はどう思うか?母に見放されないか?嫌われないか?

もうそんな事はどうでもよくなったのでした。

全ては母を悲しませない生き方を選んでいたからかもしれません。

でもそんな事を考えても幸せにはなれません。全く悲しませない生き方なんてないのです。

親不孝な娘と思われようと、期待外れだと思われようと、もう私は大丈夫だと言えます。今、私は、自分のプライドとポリシーの基に、一歩、歩き出せたからです。

 

私には少し、支配的に感じた母の存在。

それによって私は心を閉ざし、うまく生きるのが苦手になった。

悩みや苦しみを母に見せる事が出来なかった。受け入れてもらえないのはわかっていたから。見せると母は目を伏せた。あなた(私)を理解出来ないと嘆いた。

それに傷付く位なら、強がっていた方がいい。

 

私はきっといつまでも母にとって、やりづらい娘だったと思います。

母の期待通りの私になれなくて、自分が嫌になる時もありました。

でも私は母に対して愛情があるし、ずっと気にかけています。

母はそんな私の気持ちは知らないでしょうが、娘は(子どもは)お母さんがいつまでも好きなのです。

 

社会的養護を考えるのは、こんな子どもの微妙な心を察してしまうからかもしれません。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スウェーデンでの子育て問題と、日本での子育て問題の違う点について考えてみた。

今日はひょんな事から、友達のお知り合いのスウェーデン人の方と、鎌倉観光をしました。その時に彼女と話した事が忘れられず、ここに書き留めています。

スウェーデンは、男女の育児休暇取得率が共に8割と言う男女平等の進んだ国ですが、それでも子育てに関して問題があると聞きました。彼女は助産士さんで、子育てママの支援も考えられている方で、とても話が合いました。他国の文化や福祉を学ぶと、行き詰まった時にヒントを得られます。

最近、様々な中高生と関わる中で、日本の文化、特に母性の神聖化みたいな、母親=太陽のような存在でなければならない神話が、多くの子育てママを追い詰めていると感じていたところでした。

仕事を続ける事を選んで、産休明けで職場復帰するにも、日本では風当たりがキツく、色々な努力が必要。それに比べ、スウェーデンでは、お母さんもお父さんと同じだけ働く。育児休暇率が男女平等と言う事は、つまり労働時間も平等。と言う事は、子どもが両親と過ごす時間が圧倒的に少ないと言う事です。スウェーデンでの子育て問題はここにあると彼女は言ってました。
私は子育てを優先して労働を減らして、キャリアを積まない人生を選んだ。どちらが良いのでしょう。
その答えは、両親共に労働時間を減らす事。お父さんはオーバーワーク。家の手伝いも出来ないのではなく、二人が程々に働いてキャリアを積んで、二人で同じだけ子育てをする。
あくまでも理想です。でも彼女の考え方と私の考え方は一致しました。お母さんの気持ちが世界共通な印象を受けました。

経済の発展とは一体何でしょう。

虐待に走る理由は様々です。その中の一つに子育てストレス、孤独から来るもの。あるいは離婚率の上昇による貧困家庭の問題もありますが。家庭のバランスを崩すような労働条件はどうでしょう。夫婦の子育て意識の差による問題も大きいです。


専業主婦のお母さんの方が、仕事をしているお母さんより育児ストレスを感じていると言う調査結果。これは、1月の子育て支援員研修で知ったのですが、驚きました。私は基本、専業主婦だったからです。
子どもと接する時間も子育てに於いて、お互いの為に程々の距離が必要なのかもしれません。密着し過ぎるのも母親負担を増加させ危険。その延長線上に、娘を自分の所有物として扱い、虐待を虐待と言う認識もない。これ、普通に起こっている事で何も特別な事ではないです。
キャリアを積みながら、自分の人生を生きながら、子育てもして行く、そんな折り合いのつく点があれば良いのにな、と思いました。
私が、恵まれない子どもの為に働きたいので勉強しています。と言うと、何故日本は貧しくはないのに恵まれない子どもがいるのですか?と聞かれた事がとても心に残ります。

読んでくれた方ありがとうございます。

私が自死を選びかけた瞬間〜そこに何の勢いも決断もなかった。

最近ふと何度となく思い出す瞬間がある。

2回に渡る、自死を感じた瞬間。

自死は選ぶものではない。自死は突然訪れる事故みたいなもの。

これはあくまでも私の感じたこと。

正解でもないし、答えでもないし、期待しないで流れるように読んで下さい。

私も流れるようにこれを書く。

 

10歳で私は子どもの心を封印して生きようと思った。

父が突然死したその頃から私は、人は何で生きていかなければならないのか、

私は何の為に生きているのか、分からなくて一人彷徨っていた。

母には愛されている実感がなかった。いつも一人で居た。

でも何かの時にふと目にした占いで、

「子ども時代は苦労をするけれど、大人になれば幸せな人生を送る。」

と書いてあったのをその時ばかりは子どもみたいに信じて、

いつか幸せな家族の中で生きたい、と目標が出来た。

だから生きられた。10代を乗り越えられた。

奥さんになりたかった。お母さんになりたかった。

その為に他のものは犠牲にしても良かった。

 

そうして結婚したが、数年で夫婦生活はぎくしゃくとして行き、旦那さんに裏切られ、私はもう何を目指していたのかさえ分からず絶望の淵に立ち、、、

そんな日々が長く続いた。今度こそ生きて行く希望なんてなかった。

人生は苦しい事ばかり。上手くいかない事ばかり。

 

その頃、二人の息子のお母さんになっていた。

それでも生きて行く希望も力もなく、車の行き来する見通しの悪い通りに、

ふいに身を投げ出しそうになった。

それはもう何者かに誘導されるかのごとく。

自分の力はそこに全く働いていなかった。

ふらふらと・・・迷い込んだように・・・。

もう少しのところで、はっと立ち止まった。

 

更に当時8階に住んでいた私は、ベランダから下を覗き込んで、

あぁ、、、ここから飛び込んだらラクになれるのだろうなと思った瞬間、

吸い込まれるように・・・身体中のバランスを失い、吸い込まれるように・・・

フェンスをまたごうとしていた。

 

その2回の瞬間の自分を今でも鮮明に覚えている。

自死する時ってきっとあんな風なんだろうな。

覚悟を決めて、とか、決断して、とかではなく、

もう全てに疲れ果てて、自分の意識を自分では保てなくて、

何者かに突き動かされるように・・・。

気付いたらもう死んでる、ような。

 

今、私が生きているのは、何でだろう。

あの時、最後の瞬間に我に返ったのは何だったんだろう。

あの時の恐ろしさを私は覚えている。

 

長年に渡る鬱積された自分の心。逃げ場のない心。誰にも吐けない、受け止めてもらえない心。

やっと見つけた幸せを失った、やっと信じられた人に裏切られた。

疲れ果ててしまった。

もう考える事さえも出来なくなっていたあの瞬間。

 

死ぬのが怖いのではない。

考え尽くして決めるのではなく、気付いたら死んでいた状況が怖い。

当時、私にとって大切な人は、二人の息子だけだった。

きっと何もよりも、幼い我が子を置いては逝けなかったのだろうと思う。

それが私の救いだった。

 

30歳の頃の事・・・。